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06/10: 青い実を食べた
劇団青い鳥の「青い実を食べた」を観に行った。1974年に木野花さんらがつくった女ばかりの劇団で、大学生だった小倉千加子さんが入り浸っていたというのはフェミの間では有名な話。「青い実を食べた」は1986年の作品で、初演の年に紀伊国屋演劇賞を受賞した話題作だった。
この作品についての噂は数人の女性から聞いていた。とにかく感動する、とにかくすごい、とにかく観るべきだ、と。確かに、10才だと思いこんでいる80代の女性が、自分の人生を振り返るように見つめ、そして80代の自分を受け入れていく・・・という物語りは私好みのものである。女の主観、女の人生の物語り。当然、大きく期待した。
だが。結果的に。
本当に残念なことに。退屈なお芝居だった。この感想は私だけではなかったように思う。会場から吐き出された観客が一斉に乗り込んだエレベーターの中はシンとしていたが、エレベーターのドアがあいて街に出た後も、「もやもや」とした空気が観客の頭にとりついているかのようにしばし皆、無言だった。隣を歩いていた人が連れにこう言っているが聞こえた。
「前はこんなんじゃなかったように思う」
初演を観ていないので何ともいえないのだけれど、私もそう思う。前はこんなんじゃなかったのだろう、と。そうでなければ、今でも語られる「名作」であるはずがない。脚本が同じでも、演出が違えば、役者が違えば、全く違う作品になってしまう悪い例のようであった。
何が悪い、と具体的に書こうとしているのだけれど、思い出せば出すほど、とても細かなところが気になってしかたない。例えば昭和初期の設定だというのに、役者の髪が茶髪だったとか。些末なこと? だけど、私は気になる。500円のアマチュア芝居を観てるんじゃないんだもん。5000円以上もするプロの芝居を観に来てるんだもん。さらに役者の演技にも違和感がずっとあった。たとえば「驚いた」表現をする時に、わっ! と叫んで一歩後ろに飛びあがって下がる、というような。そんなことする人、舞台の上でしか、みたことない。だからこそ、プロの芝居で観たくない。
それでも、ガッカリした、ことの最もの正体を言えば、私が「女ばかりの劇団」、そしてちょっとばかしフェミな香りがする、という期待を強く持っていたことによるものだと思う。
期待すれば、失望した時の怒りも激しいという、よくある感情の反比例効果。
劇中、登場人物がそれぞれふだん思っているもろもろを大きな声で吐き出すというシーンがある。「電車の中で鼻くそ取った手はどこにいくんだ!」とか。「ケンカを止めに入るあんたが、ケンカの相手より嫌いだ!」とか。昔の「劇団青い鳥」のとがった感じの名残ある”有名なシーン”である。いちおうシナリオはあるが、アドリブで思い思いのことも言うのだろう。中にこういうことを叫んだ人がいた。
「電車の中で化粧をしている人! 電車の中はあんたの部屋じゃない!!」
このセリフで、私、さめてしまった。
女だけの劇団で、女の物語りを書き、演じてきた集団でしょう? 行儀の悪い、生意気な、「男の常識」が通用しない、怖い、とがった劇団であったはずじゃないの? それなのに、年を重ねてきたらそんなこと、言うんだ。「電車の中で化粧するな」、だなんて、JRとか営団地下鉄のオジサンみたいなこと言うんだ、と。
全くもって分からないのだけれど、なぜ、電車の中の化粧は問題になる? オジサンがネクタイを締めたり、鏡で鼻毛チェックしているのと、何が違う? 超満員電車でむりやり化粧をしているのではなく、自分のスペースで顔をいじってるだけじゃない? どこが迷惑? ちなみに私は隣にすわった女子高生が化粧をはじめた時、あんまりにも忙しなく右手が動き、私にぶつかるので、「もうちょっと丁寧にやってください」とお願いしたことがある。せわしない点においては、迷惑だが、ゆっくりと眉毛を描くくらい、どうってことないじゃん。リップひいたり、マスから塗ったっていいじゃん。エロ本読んでるオヤジと比べることも不快だけれど、いったい何が問題か。例え問題があったとしても、わざわざポスターをつくって警告するべきような問題か!? (最近、地下鉄では化粧行為をやめるようにポスターで呼びかけている) 私だったら、こう叫ぶけど。「電車で化粧するなするなと騒ぐが、そういうあなたは、もう少し身なりに気をつけろ!」
もとい。劇団青い鳥。「世間に対するグチ」のちょっとしたものにも、その人の生きている立場や世界観が溢れてくる。女なんだから女の味方しろよ、化粧くらい大目に見ろよ、と言いたいのではなく、若い女に対する苦々しい思いが、かつて若い女として一世を風靡したとがった劇団員の今を表していると思うと、なにか非常に複雑な気分になる。なった。年を取るというのは、こういうことなのだろうか。だとしたら、年は注意深く重ねていかねばならない。
05/23: 東京プライドパレードの延期について
東京で毎年夏に行われる東京プライドパレードが来年の春に延期になった。延期とは書いてあるけれど、事実上、2008年パレードは中止ということ。ラブピースクラブにとってパレードは毎年夏の一大行事。暑い一日、代々木公園にお店を出して、青い空のもとラブグッズを売るのは・・・なんてまあ、楽しい日であるか。
夏が一番盛り上がる日、だったのに。
それにしても突然のこの決定。
事情は全く知らないけれど、あまりいい「空気」が流れてこない。たまたま、wikipedia でプライドパレードをチェックしたら案の定、「内輪もめ」の匂いがプンプンする内容が出てきた(2008年05月23日現在)。「理事会」と「実行委員」がどうもうまくかみ合っていないということらしい。そしてそれはwikipediaを読む限りにおいて、とても「政治的」なことらしい。
私はただのスポンサーの一人、東京プライドパレードを楽しみにしている一人、であって、実行委員側でも理事会側でもない。(そもそも実行委委員と理事会が分けられているのもばかばかしい組織論だと思うし)それでも、そこに書かれている内容はあまりにひどい。一部の理事が尾辻かな子氏や浅野氏を応援したことにより、他党派支持や無党派のLGBT当事者間に、パレードの存在意義自体に疑問を持つ声がある云々・・・。東京プライドパレードが「政治的中立」を守っていない、ということを激しく批判している。
石原知事が新宿二丁目に対して何をしようとしていたか。そして二丁目というのは、LGBT当事者にとってどんな街なのか。考えれば自ずと答えがでてくること。また、レズビアンの議員が「レズビアンである」と公表して「セクシュアルマイノリティの人権」を訴え立候補しても応援しない「東京プライドパレード」なんて、それこそ存在意義に疑問がでてくるというものじゃない? 「政治的中立」というのが、私にはどういう意味かよく分からないけれど、政治に全くの無関心で全くの距離を持つ全くの中立である「パレード」なんてものはあり得ない、と断言できる。そんなのただのお祭りで、ただの街歩きじゃん。そもそもパレードなんて、激しく「政治的」なもののはずでしょ?
政治的中立、というのはどういう「立場」であろう。誰にとっても「中立」な、マイノリティのイベントとは、どういうものなのだろう。
パレードの延期、ということよりも、パレードが延期された原因なのであろう「政治的中立」に対する考え方というものを、ついつい考えてしまう。
ちなみに私は、中立ぶる人が最も嫌いだけど。
05/12: 商売人
客が食べ残したものを他の客に出していた料亭の女将が、「食べ残しではなく、残された『お料理』としてほしい」と報道側に伝えていた・・・・というニュースを読んだ。オーノー!”問われるのは真実ではなく、「"事実"をどのように語るか」だ”
そういう風に考える人は、世の中にはとても多いね。
言葉が真実を伝える道具ではなく、真実をずらしてもりあげる道具になっている。
そういえば”偽の比内地鶏”を売っていたオジサンが言ってたよ。
「鳥は鳥だ。嘘はついていない!」と。
あまりにもバカバカしいと思いながら、それでも船場吉兆の女将や偽鶏販売のオジサンに感じるのは、「こんな人間がいたんだ!」というような驚きというより、哀しいくらいの既視感。こういう人、時々、いるよね。
先日、ラブピースクラブで販売するオイルについて、業者の人と話していた。オイルはゴムと相性が悪いから、コンドームとは併用しないでほしい、と伝えたところ、その業者の男性は明るい笑顔でこうかえしてきた。
「それ、書かなくちゃだめですか? ゴムと相性が悪い、というくらいでいいんじゃないですか?」
当然私が「そうそう、コンドーム使わないって書くと、売れなくなっちゃうからね」と返事をすると期待しているかのような明るさだった。
ずいぶん前のことだけれど、知人がカフェを始めた。無農薬野菜で体にやさしい、ということをウリにしようとしていたけれど、商売上いろいろと大変だったのだろう。体に安心なもの、というより、簡単に安く仕入れられるもの、ということの方に力を入れていたようだった。そばで見ていてハラハラしていたが、ある日、こういうことを言われた。
「商売なんだから、ある程度の妥協はしかたないよね」
それはまるで、あなたも社長をしているからわかるでしょ、というような同意をもとめるような明るい調子であった。
「真実」なんてみないでもよい。
語りよう、宣伝のしよう、見せ方によって、いくらでも「事実」をつくっていける。
こういう風に考えている人は、少なくない。言葉を「真実を名付けるもの」ではなくて、「既成事実をつくるもの」として使う人。こういう人たちは特有の鈍感さで、「みんな同じように考えているでしょ? 本音のところでは、そうでしょ?」と、信じ込んでいる。商売とは、そういうもんだ、と。吉兆や鶏オジサンは行き過ぎた例かもしれないけれど、商売人の中には、こういうタイプの経営者は、少なくなく、いる。お金を儲けるということは、多少汚いことをすることだ、と、どこかで考えている人。
これは、吉兆や、鶏オジサンのその個人的な品性の問題、というよりは、「商売」というものをどのように捉えるか、という根源的な問題のような気がしてくる。モノやサービスを売って、お金を得る、という多くの人が関わっている「仕事」というものに対しての。
04/14: 婦人公論 永井愛さんの原稿について。
いきさつなどについては前回書いた。今日は、原稿の中身について。”ライターが永井氏をもちあげたいばかりに、永井氏の周りの人のイメージを損なった”
"永井氏がライターを使って自分の正しさを公表しようとしたと思われる"
”ライターに客観的に自己点検する姿勢があったか”
永井氏の原稿にはそんなことが書かれていた。
これを平たくいえば・・・
”あなたには私のことをもちあげたくて、愛情がいっぱいで、だから周りが見えないのね”
そういうことなんだと思う。私は、読むたびに憤死しかけている。
悔しいです。悔しいです。悔しくて悔しくて、心臓がパクパク・・・苦しそうに鳴ります。「仕事」というものを、「この程度」と捉えられることの悔しさ。愛情というものを、こんな風に捉える人に対する憤怒。あまりにも低次元なところで語られちゃったな、オレの仕事・・・という全人格をかけて爆発しそうな怒り。
これは、読者の方に判断してもらうしかないけれど、そんな風に読書するほが難しい原稿だったという自負が私にはある。だからこそ、永井さんが誰に対して何のために弁明しているのかが、全く分からないし、その弁明のためにライターの主観も主体性も人格も認めていない乱暴な発言を平然とはかれたことには、本気で怒っていいと思ってる。もうね、朝日新聞の声の欄とかに投書しちゃおうかと思ったほど。さらに、表現の自由すら制限する怖い言葉を平然と書いてしまった点には、呆然としたよ。
「ゲラを見せないなんて、聞いていない!」
その点で永井氏が抗議するのは当然だと思う。だからこそ、永井さんが「今回の経緯について書く」とおっしゃったと聞いた時、「どうぞ」と思った。永井さんならば、自分のことだけでなく、ジャーナリズムに対する提言まで書く方だと・・・そういう風に私は永井さんを信頼し、愛情を向けていた。
それでも。永井さんの原稿を読む限り、永井さんが怒っているのは、そのことじゃない。はっきり言えば、「怒り」という感情ですらない。「怒り」という真っ直ぐな正しさに名を借りた、ただただ弁明、だ。人が何かを「弁明する」時、守りたいものの正体が浮かびあがる。その浮かび上がった正体に、私はたじろいだ。
永井さんに対する愛情が私に残っているとすれば、書かれたことに激しい怒りを感じると同時に、同情を感じたことだと思う。永井さんが守ろうとしたものの正体を、私はこう感じた。
「これほどまでの才能があり、これほどまで社会的地位まで得た芸術家であっても、誰からも愛されたい、という欲望と無縁じゃないのか」
と。
そして私はフェミだから、そのことと「永井さんが女であること」を結びつける癖がある。こんなにも孤独で、愛されたくて、だからこそあれほどのものが書ける人なのだと思いながら、一方で、老獪な文章で「いい人を演出」せずにはいられない永井さんの生きがたさを見せられてしまったようにも思った。
書いていないことが、行間から浮かび上がる。それが「読書」の怖さだと思う。永井さんが恐れているように、私の原稿を「ライターが永井氏をもちあげるあまり・・・他の人のイメージを損なった」なんて、浅はかな想像などができないところに、読書の怖さがある。だからこそ、永井さんにとっても、ダメージを与えるような原稿が、そのまま掲載されたことに、永井さんの周りの本当の意味での愛情のなさが、私には哀しかった。編集部の冷たさが、怖かった。
「北原さんのために怒るんじゃない。ライターとして、これはみんなの問題だから怒っている」
そう言ってくれたひとがいた。
今回の件で、すぐに反応し、私に一番にメールをくれたライターの島崎今日子さんだ。
人間は、冷静な時にまともなことは考えられるが、追い詰められると、追い詰められたような考え方しかできない。永井さんの原稿をしあげるために編集者がこの件で奔走している最中、私は
「迷惑をかけた私が悪いんだ。編集者にも永井さんにも中央公論社にも、私だけが悪いんだ・・・。昔だったら、私は切腹しなくちゃいけないくらいのことをしたんだ。私が悪いんだ」
とブツブツブツブツ考えていた。
事件の本質を考えるのではなく、迷惑をかけた、ということに「謝罪をしようとする」、ものすごくジャパニーズな自分がいた。完全に思考停止していた。ちょうどイージス艦が事件をおこした時で、私は勝浦の漁民の怒りが自分に向かっているような気持ちになった。数年前、鳥インフルエンザ問題で自殺した京都の養鶏会社の年老いた夫婦のことを思い出した。イージス艦の艦長の謝罪の仕方を私は真剣に見つめた。思考停止した頭で、迷惑をかけたことの責任の取り方、について考えていた。
「迷惑をかけたとかそういう話じゃないんだよっ!」
と、目が醒めたのは、島崎さんの声があったから。
そしてこの声が島崎さんだったということに、私には深い意味があった。
「女であることの意味」をこんな風に文章にすることができるのか、と島崎さんのルポルタージュを泣きながら読んだことがあった。島崎さんがいなければ私はきっとルポの仕事をしていない。その島崎さんからの言葉は、何よりも強かった。
追い詰められた時に必要なのは、馴れ合いの慰めではなく、遠巻きの励ましではなく、躊躇のない力強い言葉と行動を示してくれる逞しい人の存在なのだと、改めて感じた。あなたは、私で、私は、あなたである(オレはお前でお前はオレだ! とリングで飛鳥に叫んだ長与千種のように。島崎さんがそう、女たちに感じさせる文章を書くように)。そう感じられる他者の存在だ。その他者は、私にとって、絶対的に女である、と思う。敵も味方も、私を揺さぶるのは私に似た女たちなのだと。
今回、編集長以外、全ての関係者は女であった。そのことは「この事件」にどういう意味をもたらしているのだろう。もしくは「関係ない」ことだろうか。
それはまた別の機会に、考えてみよう。
03/30: あ、わかる。
今日、「3月5日の『不愉快な文章』に共感した」と友だちに言われた。あ、あなたも!?
と、スッ! と手を差し出したくなるような気持ち。
「じゃぁ、『コーヒーになります』といわれるの嫌でしょ?」
と言えば、
「(喫茶店で)コーヒーカップを片づける時に『片づけますね」と言われるのも嫌です」
とポンと小気味いい反応。
ワカルゥ、と、私が犬だったら足をばたつかせグルグル回ってワン! の瞬間である。
「片づけますね」がイヤなのは、「お済みですか?」とか、「失礼します」と言ってテーブルを片づければよい(そもそも着席中にコーヒーカップを片づけるカフェはカフェと認めたくないけどね)、百歩譲って「片づけます」ですむ話なのに、「ね」をつけることで、「確認」と「責任」をお客に負担させるそのだらしなさがイヤなのである!!!
と高らかに叫び、朗らかに笑い、唇の端をあげ「わかっているよ」の合図をし、イエーイとハイタッチを気負いもなくでき、ドンドコドンドコドンドコドンドコと腹に響くタイコのリズムに踊りながら、新しい「部族」が生まれた瞬間に立ち会ったような、晴れ晴れしい気分になったものなのでした。
「あ、それ共感」
っていう感覚って、人を安心させ、幸せにするものなのね。私の脳内に住む、ふだんはいじけて洞窟の片隅でひざを抱えている偏屈な魂をもつ小さな部族たちが一斉に太陽の光の下で踊り出した春の日。
03/27: 声の大きさ
恋愛で、言い訳するのもされるのも、じゃれあいのうち。と思うのだけれど、仕事では言い訳するのもされるのも、たいがいにしろよっ、と常々思う。
だが! 黙っていれば分かってもらえる、というのも勘違いである。
ということが、私、今回、よーく分かった。表現の自由とか、ルポルタージュの可能性とか・・・そんな「大義名分」は、大事だけど本質じゃない。それよりも「声の大きさ」が、どれだけ人の人生を左右するのだろう。そんなことを思う。
私、今回、永井氏にほとんど言い訳をしなかった。
「ゲラチェックできないなんて聞いていない」
と怒る永井氏に対して、目の前にいた私は、ただただ黙ってしまった。
「ゲラをみせて」と、永井氏のスタッフから連絡をもらった時、「え? 見せられませんよ」と慌てた日のことを、よく覚えてる。すでに印刷所にまわり訂正が不可能なゲラを持って私は永井氏の事務所にかけつけたのだ。
永井氏とは、私が司会を務めたラジオ番組にご登場いただいてからのお付き合いで、スタッフの方々とも顔見知りだった。私にとっては永井氏は今後もお付き合いを深めていけたら・・・と願っていた大切な人だった。そんな永井氏に対して、ゲラチェックがないという大切なことを伝えずに取材を始めるなんてあり得ない。
「インタビューではないルポルタージュです。(永井氏が以前取材を受けた)朝日新聞のアエラ『現代の肖像』と同じように、ゲラチェックはなく、周辺取材も行い、ライターの視線で永井氏を書かせていただきたいのです」
ということを、永井氏のスタッフに伝え、永井氏本人にも了解を得ている、という前提で取材をスタートしていた。
「確認するべきでした。」
永井氏のスタッフの一人はそう私に頭を下げた。取材に関する様々なやりとりは彼女を通して行っている。この人を抜きに永井氏に直接連絡を取ることはない。発売日はいつか、次の取材はいつか、ゲラはいつチェックできるのか、またできないのか。そういった事務的確認は、この人の仕事だ。だから私に謝ったのだと思う。
言った・言っていない・伝えた・伝わっていない。
仕事上の重大な行き違いだと思う。その責任の半分は私にあると思って、私はスタッフに謝った。あくまでも、半分の責任、だと思っていた。半分といったって、本来は編集部が取材申込みを正式にするべきことをしなかった、という点においては、三分の一かもしれない、と後で思った。さらにその後では、もしかしたら四分の一かも、とも思った。私自身、取材を受ける立場として、ゲラがチェックできるかはその都度必ず確認している。それを怠った責任という意味では、永井氏にも責任はあるのではないか、と。
というわけで。私は永井氏に反論せず。編集部にも言い訳せず。きわめて”日本的”な沈黙を通してしまったのだった。で。結果的に、全ての責任を私が負う形になった。・・・ということを知ったのは、永井氏の原稿が掲載された雑誌が発売されてから、なのだけれども。そう、私はバカでした。分かってもらえる、というような甘えがあったのだと思う。まさか、ここまで一方的なこと言う人じゃない・・・と永井氏を信頼していたんだと思う。オーノーッ!
今回、永井氏の原稿の冒頭には、まるで私が嘘をついて取材をはじめたかのような文章が掲載されている。本来、編集権が適用される「リード(冒頭の太字の文)」の文章は、永井氏自身が手を加えて、私の名前を出し、私が責任を一人で負うように文章を記している。それが「永井氏側からみた事実」だから。
編集部がこの原稿をそのまま掲載した理由は、いろいろある。が、一つは、社の方針と永井氏の主張の板挟みになった結果であるという。
ご存知の通り、婦人公論社の親は読売新聞社。新聞社にとって、ゲラチェックしない取材は当然の前提。そもそもゲラチェックできないことを伝える必要もないし、さらにゲラをチェックできると口頭で言ったのなら問題はない。一方、編集部は、ゲラチェックできないことを文書で伝えていなかい責任を感じていた。永井氏には謝罪したい。
社と永井氏の板挟みになり・・・。
という説明を受けた。
正直、よく分からない。何を最も大切にするか、という優先順位が、組織人とフリーで働く者とは違う、ということなのか。それにしても、永井氏の言い分に200%耳を傾けて、私に話を聞くことも、(永井氏が原稿に書いた内容の)事実を確認することも、話し合う機会すら設けてもらえなかったのはなぜなのだろう。
そのことについては、こういう説明を受けた。
永井氏は、編集者に「北原さんは、何も言わない。黙って泣いているだけ」と伝えていた。そして私が永井氏の友人に何度も何度も電話をしている、「北原さんは不安定ではないか」と話したのだそうだ。不安定で判断能力がないライター、というイメージを、永井氏は私にもたれたのかもしれない。
確かに泣いた。
だいたい私は涙とオシッコが出やすい体質なのであるけれど、それにしても、仕事の相手に涙を見せるなんて・・・あーあーあああああーッ、と心で叫びながら、ツーしちゃったのは確か。でも泣いたのは、不安定だからというよりは、忙しい永井氏を煩わせてしまった自分が情けない、という思いに加え、
「文章にセンスを感じられない」
と永井氏に言われたことが、きいた。あーん(泣) 3時間近く永井氏の事務所にいたが、ツーしちゃったのは、帰り際の5分くらいだったと思うけど。今思い返しても悔しい。しかし、客観的に見たら確かに、黙ってばかりいて、しかも泣く、でくのぼうな女、であろう。
だけど、不思議なのは・・・。私が永井氏の友人に何度も電話をした、ということ。用事があって2回、たった2回(しかも一度は留守だった!)電話はしたが・・・。何度か電話をかけてきたのは、今回の件で永井氏の気持ちを弁明する役割に立っていたその友人の方であって、私じゃない。それなのに、この永井氏の発言に、編集者は「北原さんを刺激するのはやめよう」という思いを深めてしまったのだそうな。
「永井氏、普通にみえました」
と編集者は言った。まさか嘘をついているなんて思わなかった、と。
たぶん、永井氏も嘘をつくつもりではなく、本気でそう思いこんでしまったのだと思う。そしてその永井氏の声の大きさは、出版社にとっても驚異だった。出版差し留め要求など、どんなに法的に根拠がなくても突きつけられたら怖いだろう。これが週刊文春とか新潮とかフライデーとかだったら慣れたものだろうけれど。婦人公論だもの。
全ての発端がなんだったのか・・・を考えるには、あまりにも長い長い時間が過ぎている。取材依頼は去年の2月だった。もう1年以上も前のこと。その時に言った・言わない・伝えた・伝えてない・・・という事実を証明するものは、それぞれの記憶の中にしかない。ただ、明らかな事実は、私の沈黙がただ無駄で、永井氏の声の大きさは人を動かしたということ。
表現の自由とかそういうことよりも、私にはこの声の大きさの違い、というものが何か決定的に人生の岐路に立った時に重大なのではないか、なんて思う。そしてこの「声の大きさ」というのは、何によるものか、何によって創られるものか、ということも考える。だって、どんなに声が大きくたって、無駄吠え、ということだってあるじゃない? 誰の声がどの程度大きいのか。誰がどのくらいのボリュームで叫ぶのか。そのことを考える。
そしてそれを考えていくと、急に腰のあたりが暗く重く感じる。
自分の存在を軽んじられる。そういう時にまずわきあがる感情は怒りではなく、空虚なのだと、私は今回、知ってしまったよ。
劇作家協会の会長を務めた経験もある日本を代表する劇作家である女性とバイブ屋兼ライターのオレ。
創作者である限り、仕事に対する価格の違いという現実はもちろんある。仕事の受注量や、原稿料の違いなど、クリエイチブな世界は残酷なリアルだと思う。だから、編集部は商売上の判断をしたのだな、とも思う。(編集部の説明会で、『北原さんがS野S一でも、同じことをしました?』と聞いた先輩がいた(笑)) その事に対して、くやしいな、とは思うけれども空しさというものは感じない。感じたのは、永井氏の原稿に対してだ。
言った言わない、という「行き違い」に対する責任を感じた上で、私は永井氏の原稿に情けないほどの虚しさに溢れちゃってる。ここから立ち直るのには、もう少し時間がかかりそうなのよ。
03/21: 婦人公論:永井愛氏の原稿について
婦人公論の編集長と担当編集者が、今回の永井氏の反論文についての説明会を開いた。重苦しい日々だったけれど、少しだけ、前向きな気持ちに。
今回の説明会で編集長はハッキリと、永井氏の反論を一方的に掲載したこと、全ての責任をライターに負わせる文面になったことに対し、私に詫びた。自分の仕事人生の汚点、とまで話していた。いざとなれば、私に反論を書かせることもできる、ということも話していた。
えー、ほんとー? と驚いたけれど、「私、書きます!」という風なことを言ったら、え? っとなった。本音って難しい。
商品にならないと思うので、ブログで書きますと、断っておいた。
03/21: 角田光代様 申し訳ありません。
と、誰に謝りたいかと言えば、角田光代さんである。知り合いではありません。ただ、今週発売号の「週刊金曜日」の私の書評に問題アリです。
今週「本棚」という本の書評をした。
角田光代さんや、みうらじゅん氏など、15人の作家の本棚を「のぞく」本である。
この本、面白いのであるが、なんとなく違和感があったのだ。その違和感とは、全体的に本棚がインテリアっぽく(特に石田衣良)、本棚をのぞかせる、ということの恐れが薄い・・・というか。
本棚って、もっとも見られたくないものの一つではないか?
私の家で、人に見てもらいたくないもののベスト3をあげれば、それはたまったAVでもなく、洗濯の山でもなく、何が出てくるか分からない恐ろしい冷蔵庫の中でもなく、一に本棚、二に本棚、三に本棚・・・である。そして万が一見られた時は、あーーーーーっ、仕事でねーーーーーっ、読まなくちゃいけなくってねーっ、と言い訳したい本だって本棚にはあるさ。(「女性の品格」他)
それが「本棚」という本の中ではみなさん、堂々と見せている。不思議だなぁ、面白い本だけど、不思議。という思いを、書評に書いたのだ。初稿の段階ではこういう感じで。
「不思議なのは皆さん、嬉しそうにのぞかれていること。もう少し羞恥してよ」
で、ゲラの段階で、これじゃ分かりにくいかも&字数の関係で、この言葉を付け足した
「インテリアじゃないんだから、羞恥してよ」
しかし、刷り上がってきた今日、印刷されたものには、こう書かれていたのである。
「不思議なのは皆さん、嬉しそうにのぞかれていること。インテリじゃないんだから、羞恥してよ」
嗚呼!!!!!
手のひらに汗が出てきた。
一度「赤=訂正・加筆」を入れたものに関して、よほど見えにくい、おかしい、ということがなければ、送りましたー、受け取りましたー、これで進めますー、よろしくですー、で終わる。
・・だから・・・だけど・・・。えーんぅっっっ!!!!
すみません。角田光代さま。すみません。この本に出ている15人の方々に・・・。
しかし、インテリじゃないんだから羞恥してよっ! って、いったい・・・どういうぶち切れ方?? 書いた私の人格を疑って下さい、と言うような書評だと思うわ。
ヒー&トホホだ。
03/13: 婦人公論の件その2
今回のことで、すぐに私に連絡をくれ、またメールを下さった方のほとんどが、フリーライターだった。お会いしたことのないライターの方からも連絡をいただいた。多くの方からは大きく分けて二つの懸念が寄せられた。
こういう抗議が正当化されるなら、そもそもルポルタージュという記事が成立しなくなるという恐怖。
編集部が書き手を守らないことの暴力性。
なぜ編集部が永井氏の言い分だけを聞いて記事を掲載したのか。
前回も書いた大きな疑問について・・・編集長による説明会が開かれることになった。
これは私だけに対する説明ではなく、ライター数人に向けての説明会になる。
この説明会開催のために、本気で怒って動いて下さった先輩のライター方々に・・・本当に感謝。
03/11: 婦人公論に掲載された永井愛氏の原稿について
少しずつ「反応」がきた。現在発売中の「婦人公論」に掲載されている、永井愛氏の原稿について、である。この前号の私の記事、永井愛氏を追ったルポルタージュに対し、永井氏がお考えを述べている。
この件について、どこから書いていっていいのか分からない。
あまりにもたくさんのことがあった。
少しずつ、経緯と私の考えを書いていきたい。
一つだけ確かなこと。掲載されている永井氏の原稿には事実と違うことも多く、あまりにも一方的な内容であるということ。また、永井氏がルポタージュというものを全く理解しておらず、さらに言えば、表現の自由についても、永井氏の発言とは思えないような内容が書かれているということ。
なぜこのような原稿を編集部は永井氏の言うままに掲載してしまったのか。編集部とは今後、話し合っていこうと思っている。
今日はまず、私を心配して下さってメールをしてくれた方々にお礼。