北原みのり オンナメディアブログ
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12/23: きちんと、生きろよ、な、って人に言ってる場合か。
週刊朝日の忘年会に行ってきた。
室井佑月さんや小倉千加子さんに会えるかなっ! と思っていたけれど、残念、お二人はいらっしゃらず。南伸坊さんがいらして、その顔の思いの外の小ささに驚いた。だって、すごく顔が大きいイメージがあるじゃないの。にこにこして、小さいっ! 小さいっ! って見つめてた。
恒例という「ビンゴ大会」に、賞品として私はバイブを提供。どなたの手に渡るかドキドキしていたけれど、とてもいい感じのライターの女性にあたった。末永く、お幸せに〜! 私は私でワインボトルがあたりました。週末の友だち宅の忘年会に持って行こうー。ほろ酔いで楽しい夜。
出かける前に、ちょっと気分が沈むようなことがあった。言葉を重ねるごとに深く暗い沼にずぶずぶとはまっていく不幸行き思考回路との衝突、というようなやりとり。ぐったりしていたら、いたづら電話がかかってきた。
はーはーはー、とか言っている。こういう電話は黙ってそのまま放置したり、ガチャって切ったりするだけなんだけど、今日は思わず説教しちゃったよ。
「きちんと、生きろよ、な」
しかし冷静に考えれば、人に言っている場合ではないのである。
前向きに、心痛めずに、きちんと生きるって、簡単なことじゃありませんからね。この国で生きる女ですもの。ついつい、将来は不安、将来は暗いという現在を生き続けてしまうことだってあるよね。誰かを呪いたくもなるよね。いたづら電話もかけたくなるんだろう。生まれた環境を恨んだり、前世を呪ったり、親をいじめぬいたり、他人の悪口を言い続けたりもしたくなるんだろう。
でも、それは無駄無駄無駄じゃー! と最近はよく思う。それどころか、社会に対して怒るのも無駄、とか思ったりするやばめの私、元フェミ。だって、希望を見ない者が抱える怒りが、暴力としてしか発散されない例をやまほど見てきたんだもの。怒りではなく光を信じる者の悔しさ、という感情を「共感を呼ぶ言葉」に成熟させていくことを心がけなければ、自滅するよ、ほんと。
もちろん、「怒る」という自分の感情を押し殺してしまうのが「女ジェンダー」であり、だからこそ女はまず怒れ! というフェミ系言説も私自身が信じてきたものだし、「怒り」がなければ始まらないっ、っていう状況もあるのはわかる。でも、蓄ようが、発散させようが、「怒り」という感情って、柔らかい心のヒダヒダ(それはまるで膣の入り口のような)をセメントで堅めた上に瞬間冷凍した上にナイフで傷つけまくるような感情なんじゃないかとも思う。「怒り」という感情と長くつきあってくると、そう感じる。怒るの反対語は、なーなーにすますとか、へらへらと卑屈になる、とかじゃないから。怒るの反対は、ただ、怒らない。怒らないけれど、抗議はする。怒らないけれど、交渉はする。怒らないけど、それは違う、と言葉にできる反射力を身につける。悔しさを他人のせいには、しない。自分の怒りで自分を傷つけない。「私」には想像も及ばないことで傷つくから「他人」なんだということを、私たちは互いに理解した上で、ぶつかることを恐れない。
そんなことを、疲労するやりとり何個かと、いたづら電話と、年末の忙しさにパニクリかけている自分に気がつき、思う。きちんと生きろよ、おれ、だ。他人の怒りにも、いたづら電話にも、つきあわない。聞くべき話と、語るべき話と、真実と、ゆがんだ妄想と、言葉通わせる相手と、通わない相手、はいはい、事業仕分け、事業仕分け。光を見つめて、前むいてー、きちんと、生きるで。
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12/23: きちんと、生きろよ、な、って人に言ってる場合か。
週刊朝日の忘年会に行ってきた。室井佑月さんや小倉千加子さんに会えるかなっ! と思っていたけれど、残念、お二人はいらっしゃらず。南伸坊さんがいらして、その顔の思いの外の小ささに驚いた。だって、すごく顔が大きいイメージがあるじゃないの。にこにこして、小さいっ! 小さいっ! って見つめてた。
恒例という「ビンゴ大会」に、賞品として私はバイブを提供。どなたの手に渡るかドキドキしていたけれど、とてもいい感じのライターの女性にあたった。末永く、お幸せに〜! 私は私でワインボトルがあたりました。週末の友だち宅の忘年会に持って行こうー。ほろ酔いで楽しい夜。
出かける前に、ちょっと気分が沈むようなことがあった。言葉を重ねるごとに深く暗い沼にずぶずぶとはまっていく不幸行き思考回路との衝突、というようなやりとり。ぐったりしていたら、いたづら電話がかかってきた。
はーはーはー、とか言っている。こういう電話は黙ってそのまま放置したり、ガチャって切ったりするだけなんだけど、今日は思わず説教しちゃったよ。
「きちんと、生きろよ、な」
しかし冷静に考えれば、人に言っている場合ではないのである。
前向きに、心痛めずに、きちんと生きるって、簡単なことじゃありませんからね。この国で生きる女ですもの。ついつい、将来は不安、将来は暗いという現在を生き続けてしまうことだってあるよね。誰かを呪いたくもなるよね。いたづら電話もかけたくなるんだろう。生まれた環境を恨んだり、前世を呪ったり、親をいじめぬいたり、他人の悪口を言い続けたりもしたくなるんだろう。
でも、それは無駄無駄無駄じゃー! と最近はよく思う。それどころか、社会に対して怒るのも無駄、とか思ったりするやばめの私、元フェミ。だって、希望を見ない者が抱える怒りが、暴力としてしか発散されない例をやまほど見てきたんだもの。怒りではなく光を信じる者の悔しさ、という感情を「共感を呼ぶ言葉」に成熟させていくことを心がけなければ、自滅するよ、ほんと。
もちろん、「怒る」という自分の感情を押し殺してしまうのが「女ジェンダー」であり、だからこそ女はまず怒れ! というフェミ系言説も私自身が信じてきたものだし、「怒り」がなければ始まらないっ、っていう状況もあるのはわかる。でも、蓄ようが、発散させようが、「怒り」という感情って、柔らかい心のヒダヒダ(それはまるで膣の入り口のような)をセメントで堅めた上に瞬間冷凍した上にナイフで傷つけまくるような感情なんじゃないかとも思う。「怒り」という感情と長くつきあってくると、そう感じる。怒るの反対語は、なーなーにすますとか、へらへらと卑屈になる、とかじゃないから。怒るの反対は、ただ、怒らない。怒らないけれど、抗議はする。怒らないけれど、交渉はする。怒らないけど、それは違う、と言葉にできる反射力を身につける。悔しさを他人のせいには、しない。自分の怒りで自分を傷つけない。「私」には想像も及ばないことで傷つくから「他人」なんだということを、私たちは互いに理解した上で、ぶつかることを恐れない。
そんなことを、疲労するやりとり何個かと、いたづら電話と、年末の忙しさにパニクリかけている自分に気がつき、思う。きちんと生きろよ、おれ、だ。他人の怒りにも、いたづら電話にも、つきあわない。聞くべき話と、語るべき話と、真実と、ゆがんだ妄想と、言葉通わせる相手と、通わない相手、はいはい、事業仕分け、事業仕分け。光を見つめて、前むいてー、きちんと、生きるで。